下村湖人(しもむらこじん)の「論語物語」を読みました。

論語というと漢文で難しいイメージしかありませんが、本書は「次郎物語」などで有名な著者が論語の言葉を元に創作した現代語の28の物語で構成されていて、とても面白く、勉強になって、感動しました。


―裏表紙の紹介文―――

湖人は生涯をかけて『論語』に学んだ。二千年以上も経た『論語』の章句を自由自在に使って、『論語』で養われた自分の思想を物語に構成したものが本書で、『論語』の精神を後世に伝えたい一念が結晶している。孔子と弟子たちが古い衣をぬぎすて、現代に躍り出す。その光景がみずみずしい現代語でたんねんに描かれている。孔子はすぐれた教育者であった。教育乱脈の今日の日本にとって、本書は万人必読の書である。(永杉喜輔氏「まえがき」より)



本書は28の物語に別れていますが、下記にその中の20番目から少し抜粋させて頂きました。



司馬牛(しばぎゅう)はあからさまに自分の悩みを打ち明けるつもりだったが、孔子がすでに自分の胸のうちを見すかして、非難しているような気がしたので、とっさに思いつきの質問をしてしまった。それは、彼らの間につねに使われる「君子(くんし)」という言葉の意味であった。
孔子は、その質問をうけると、ちょっと目を閉じた。そしておもむろに答えた。
「君子は憂(うれ)うることがない。また懼(おそ)れることがない」
司馬牛は、君子の説明としては、少しあっけないような気がした。しかしまたなにか深い意味があるようにも思った。彼はふたたびたずねた。
「憂えず懼れないというだけで、君子といえましょうか」
「憂えず懼れないということは、だれにもできることではない。それは自(みずか)らを省(かえり)みて疚(やま)しくない人だけにできることなのじゃ」
司馬牛は一応孔子の意味を理解した。しかし、まだ彼は、それを自分の問題に結びつけて考えてはいなかった。孔子はもどかしそうにいった。
「人の思惑(おもわく)が気にかかるのは、まだどこか心に暗いところがあるからじゃ」
司馬牛はひやりとした。なんだ、自分のことだったのか、と思った。そして心に暗いところがあるといわれたのが、おそろしく彼の神経を昂(たか)ぶらせた。孔子はそれを見逃さなかった。そして司馬牛がなにか弁解をしようとするのをおさえるように、
「君が兄弟たちの悪事に関わりのないことは、君自身の心に問うて疑う余地のないことじゃ。それだのに、なぜ君はそんなにくよくよするのじゃ。なぜ乞食のように人にばかり批判を求めるのじゃ。それは、君が君自身を愛しすぎるためではないかな。……われわれには、もっとほかにすることがあるはずじゃ」
司馬牛のこれまでの悩みは一時に吹きとんだ。しかし同時に、彼はいっそう大きな悩みにつき入る用意をしなければならなかった。それは人間の大きな道が、巌(いわお)のように彼自身の前に突っ立っているのを発見したからである。


「司馬牛の悩み」
186P~193P より抜粋





「論語物語」
下村湖人 著
講談社学術文庫
1050円 +税




「君が君自身を愛しすぎるためではないか」

自分をよく見せようとか、飾ろうとかする心が強いということでしょうか。
飾っても飾らなくても、自分で見えていても見えていなくても、自分以外の誰にもなれない、唯一無二の自分というものが厳然とあります。
自分自身に疚(やま)しいところが無ければ、他人の目や批判を気にすることなく、恐れることなく、堂々とありのままの自分で、ただただ誠実に生きて行けばよいと言うことでしょうか。




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